スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告
∧top | under∨

寵妃ロクセラーナ

rokusera-na60-84

渋沢幸子著        
集英社刊                


本名アレクサンドラ・リソフスカ。

ポーランドを侵掠したタタール人に
さらわれ奴隷となり
大宰相イブラヒム・パシャに買われた後、
1520年にスレイマン1世に献上された。

背丈はかなり低く、
愛想がよく陽気な性格であったと伝えられる。



トルコ研究家・紀行作家。
他の作品に、
「イスタンブール、時はゆるやかに」
「イスタンブールからバスに乗って」
「イスタンブールから船に乗って」
「イスタンブール歴史散歩」
「エーゲ海ゆらゆら」
「キプロス島歴史散歩」
「ハーレムの女たち」
「落日のボスフォラス」

ロクセラーナは、オスマン帝国第10代スルタン、
シュレイマンⅠ世から、おくられた愛称だと、
思いましたが・・・
西洋人がつけた、ロシア女という意味の、
蔑称でした。

ウクライナのルテニア地方の寒村の、
司祭の娘、アレクサンドラは、
村を襲ったタタールの盗賊団にさらわれ、
クリミア半島の東南、黒海に臨む、
カッファの港にある奴隷市場に送られます。

美しい赤毛を持つ、アレクサンドラは、
後に、大宰相となる、麗しの
イブラヒム・パシャの目にとまり、
即位したての シュレイマンⅠ世への
献上品として、イブラヒムの館へ、迎えられます。

1ヶ月後。
イブラヒムによって、フッレムと名付けられた
アレクサンドラは、宮殿へと向かいます。

「チョック ギュゼル」 (とても素晴らしい)と、
称賛されたフッレムは、イクバル(お気に入り)
からカドゥン・エフェンディに。

そして、瞬く間に、ハセキ・フッレムとなり、
ついには、ハーレムを出て、王妃となります。

17歳で皇子を出産したフッレムは、
その後も3男1女に恵まれて、
幸福に暮らしますが・・・。

当時の、オスマン帝国では、
第一皇子が即位すると、
第二皇子以下の兄弟達は、
絹の紐で、絞殺される掟でした。

そして、フッレムの長男は
第二皇子でした・・・。

バシュ・カドゥン・エフェンディ(第一夫人)の、
マヒデヴランのひとり息子で、
第一皇子のムスタファは、
即位する事なく 葬り去られます。

同様に、フッレムの4人の息子達も、
数奇な運命をたどります。

一気に読めました。

ややこしい(笑)オスマン帝国の制度も、
さほど、気になりません。

デウシルメ(少年選抜徴集制度)によって
毎年、異教徒の中から、
体力・知力・容姿に優れた少年を集めて、
イスラム教に 改宗させ、
イエニチェリ(近衛歩兵師団)や、
クル(宮廷奴隷)に。

クルになれば、ギリシャ系であれ、
アルメニア系であれ、
出自は一切、問われません。

出世の鍵は、本人の能力と
スルタンの恩寵のみ。

この時代、大宰相になった人物の
ほとんどが、クル出身者だったそうです。

イブラヒム・パシャも、その中の一人でした。

14歳の時に、ギリシャで、
海賊にさらわれたイブラヒムは、
マニサの裕福な老婦人に売られます。

その後、デウシルメによって、
徴集されたイブラヒムは、
カッファで総督をしていた、シュレイマン
(皇太子)の小姓と なり、
ついには、大宰相になって、
シュレイマンの妹を娶り、
肉親を呼び寄せましたが・・・。

意外な事に、彼もまた、あっけなく、
43年の生涯に幕をおろします。

結局、誰ひとりとして、
最期まで幸福だった人物は
いませんでしたが、不思議と
陰惨な感じが無く、あっさりと読めました。  
別窓 | ノンフィクション | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨
<<聞き書き 尾上九朗右衛門 アメリカに移住した梨園の御曹司 | 晴れのち猫 | 誰も教えてくれない完全ムショ暮らしマニュアル>>

この記事のコメント

∧top | under∨

コメントの投稿

 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック

∧top | under∨
| 晴れのち猫 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。