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光太夫帰国 遠きロシアより

koudayuukikoku

岸宏子著
中日新聞社刊

伊勢若松の船頭大黒屋光太夫と磯吉の、
帰国後の苦悩と、
光太夫が78歳で没するまでの記録。

キリル・ラックスマンの援助により
寛政4年秋に、根室へ
エカテリーナⅡ世号で帰国を果たすが・・・。

入り婿であった光太夫の妻は、
すでに・・・再婚していた。

天明2年12月9日17人を乗せた神昌丸は
白子から、紀州藩の米500石
木綿・薬・雑貨・酒を積み込んで
江戸へ向かう途中、遠州灘の嵐で遭難し
7ヶ月の漂流の後、アムチトカ島に漂着。

嵐は記録的なもので、このときの遠州灘は
数十隻の船が消息を絶っております。

神昌丸の帆柱を切り倒す事で、
からくも、転覆を免れました。

アムチトカ島に、漂着した翌日
神昌丸はバラバラになって、崩れ落ちたと言う・・・。

流木を集めて船を作り、ロシア人も同乗させ
半島へ渡り、連絡船でロシア本土へ。

光太夫が一番頼りにしていた庄蔵は、
ヤクーツクからイルクーツクへ、
二ヶ月間の犬ぞりでの移動の途中で
犬ぞりから転落し、
重度の凍傷にかかってしまった片足を・・・。

その後、キリスト教に改宗したために、庄蔵は
帰国できなかった。

新蔵は、帰国直前にロシア人女性と恋愛結婚し、
キリスト教に改宗し、入り婿となった。

磯吉は、生涯独身だったが、
光太夫(46)は薬草園で、おまき(20)と
再婚し、息子も誕生する。

後の、大黒屋梅陰(学者)である。

寛政10年12月に磯吉が、
その4年後に光太夫が
伊勢若松に一時帰郷を果たす。

光太夫の母も、磯吉の母も
元気で再会を喜び合うが・・・。

小市の妻は、生還した、ふたりに対して・・・。





帰国後の根室で壊血病にかかって世を去った
小市の妻との再会や、
新昌丸の船主、亀山の彦兵衛への
賠償問題など現実的な問題も描かれています。

幕府は、鎖国を破った罪人として
ふたりを終生、薬草園に幽閉する一方で
生活費を支給したり、妻帯するように勧めたり
光太夫の甥に里帰りの世話料として
米2俵を渡したりもしておりますが・・・。

とうとう最後まで、蝦夷奉行の補佐に
ロシア語の堪能な光太夫を
起用する事はありませんでした。

このあたりが、抜け目なく、根室周辺の測量をして
帰国したラックスマンと対照的ですね。

科学アカデミーの会員だったキリル・ラックスマンは、
日本の書物の翻訳や日本の海岸線の形状等を
すでに、光太夫から聞き出しております。

アムチトカ島で、野菜不足による壊血病から、
一行のほとんどが倒れてしまい・・・残念です。

この本は、絶版でしたが
ブックオフの100yenコーナーで入手いたしました。
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